門前の小僧、『維摩経』を読む  維摩会(春秋館)で参禅ライフ17

仏と菩薩と聖声聞と独覚との過去現在未来のすべてに礼拝し奉ります。

それでは、一章の「仏国品」の続きを、ご一緒に読んでいきましょう。

 

是の故に宝積、もし菩薩浄土を得んと欲せば当に其の心を浄くすべし。其の心の浄きに随いて則ち仏土も浄かるべし」と。

その時、舎利弗、仏の威神を承けて是の念を作さく、「若し菩薩、心浄ければ則ち仏土浄しとせば、我が世尊もと菩薩たりし時、意あに浄からざらむや、而も是の仏土の不浄たること比のごとくなるや」と。

仏其の念を知りたまい、即ち之に告げて言わく、「意に於て云何、日月あに不浄たらんや、而も盲者は見ざるなり」と。

こたえて曰く、「不なり、世尊。是れ盲者の過にして、日月の咎には非ざるなり」と。

 

ここで、舎利弗尊者が登場します。

舎利弗尊者(シャーリプトラ尊者)は「釈迦十大弟子」の一人で、

釈尊の第一のお弟子さんです。

マガダ国のバラモンの家の生まれで、若いころから学問に

優れていたといいます。

十大弟子のなかでも、舎利弗尊者は智慧第一、目連尊者は神通第一と

称されました。ふたりは親友でした。

「のちに大乗仏教がおこり種々の大乗経典がつくられた際、

舎利弗は部派仏教(いわゆる小乗)の代表として、

しばしば引用されている」(日本大百科全書ニッポニカの解説)と

ありますが、この『維摩経』でも、そのような立場として

舎利弗尊者が登場しています。

釈尊が6年間の苦行をされた前正覚山(筆者撮影)

 

門前の小僧、『維摩経』を読む  維摩会(春秋館)で参禅ライフ18

仏と菩薩と聖声聞と独覚との過去現在未来のすべてに礼拝し奉ります。

それでは、一章の「仏国品」の続きを、ご一緒に読んでいきましょう。

 

舎利弗よ、衆生の罪の故に如来の仏土の厳浄なるを見ざるまでにて、如来の咎には非ざるなり。舎利弗よ、衆生の罪の故に如来の仏土の厳浄なるを見ざるまでにて、如来の咎には非ざるなり。舎利弗よ、我がこの土は浄けれども、而も汝は見ざるなり」と。

爾の時、螺けい梵王、舎利弟に語るらく、「この意を作して、此の仏土をおもうて似て不浄たりと為すことなかれ。所以何となれば、我れ釈迦牟尼仏の土の清浄なるを見ること、たとえば自在天宮の如し」と。

舎利弗言く、「我れ此の土を見るに、丘陵・坑坎・いばら・小石・土石・諸山・あくたも満たされたり」と。

螺けい梵言く、「仁者心に高下有りて仏の慧に依らざるが故に、此の土を見て不浄たりと為すのみ。舎利弗、菩薩は一切衆生に於て悉くみな平等にして、深心清浄なり。仏の智慧に依れば、則ち能く此の仏土の清浄なるを見るべし」と。

ここに於て仏、足の指を以て地をおしたもうに、即時に三千大千世界、若干百千の珍宝をもて飾らるること、たとえば宝荘厳仏の無量功徳宝荘厳土の如し。

 

「三千大千世界」とは、仏教の世界観による広大無辺の世界を指します。

須弥山を中心に日・月・四大州・六欲天梵天などを含む世界を「一世界」とし、

これが千集まったものを「小千世界」といいます。

「小千世界」が千集まったものを「中千世界」といいます。

「中千世界」が千集まったものを「大千世界」といい、

これらを総括した世界を「三千大千世界」といいます。

(参考資料:小学館デジタル大辞泉

スジャータ村(セーナ村)のストゥーパ(筆者撮影)

 

門前の小僧、『維摩経』を読む  維摩会(春秋館)で参禅ライフ17

仏と菩薩と聖声聞と独覚との過去現在未来のすべてに礼拝し奉ります。

それでは、一章の「仏国品」の続きを、ご一緒に読んでいきましょう。

 

是の故に宝積、もし菩薩浄土を得んと欲せば当に其の心を浄くすべし。其の心の浄きに随いて則ち仏土も浄かるべし」と。

その時、舎利弗、仏の威神を承けて是の念を作さく、「若し菩薩、心浄ければ則ち仏土浄しとせば、我が世尊もと菩薩たりし時、意あに浄からざらむや、而も是の仏土の不浄たること比のごとくなるや」と。

仏其の念を知りたまい、即ち之に告げて言わく、「意に於て云何、日月あに不浄たらんや、而も盲者は見ざるなり」と。

こたえて曰く、「不なり、世尊。是れ盲者の過にして、日月の咎には非ざるなり」と。

 

ここで、舎利弗尊者が登場します。

舎利弗尊者(シャーリプトラ尊者)は「釈迦十大弟子」の一人で、

釈尊の第一のお弟子さんです。

マガダ国のバラモンの家の生まれで、若いころから学問に

優れていたといいます。

十大弟子のなかでも、舎利弗尊者は智慧第一、目連尊者は神通第一と

称されました。ふたりは親友でした。

「のちに大乗仏教がおこり種々の大乗経典がつくられた際、

舎利弗は部派仏教(いわゆる小乗)の代表として、

しばしば引用されている」(日本大百科全書ニッポニカの解説)と

ありますが、この『維摩経』でも、そのような立場として

舎利弗尊者が登場しています。

 

釈尊が6年間の苦行をされた前正覚山(筆者撮影)

 

門前の小僧、『維摩経』を読む  維摩会(春秋館)で参禅ライフ16

仏と菩薩と聖声聞と独覚との過去現在未来のすべてに礼拝し奉ります。

それでは、一章の「仏国品」の続きを、ご一緒に読んでいきましょう。

十善は是れ菩薩の浄土なり。菩薩成仏の時、命中夭(わかじに)せず、大富にして、梵行し、言う所誠諦にして、常におだやかなる語を以てし、眷属離れずよく争いを和し、言必ず饒益し、妬まず、怒らず、正見の衆生来って其の国に生ぜん。

是の如く宝積、菩薩其の直心に随いて則ち能く行を発し、其の発行に随いて則ち深心を得、其の深心に随いて則ち意調伏し、意の調伏に随いて即ち説の如く行し、説の如く行ずるに随いて則ち能く廻向し、其の廻向に随いて則ち方便有り、其の方便に随いて則ち衆生を成就し、衆生を成就するに随いて副ち仏土浄く、浄土の浄きに随いて即ち説法浄く、説法の浄きに随いて則ち智慧浄く、智慧の浄きに随いて則ち其の心浄く、其の心の浄きに随いて則ち一切の功徳浄し。

「十善」とは、不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語(ウソをつかないこと)・

不両舌(人を仲違いをさせるようなことを言わない)・不悪口・不綺語

(人心を惑わすような言葉を言わない、人のご機嫌をとって気に入られるために

お世辞を言わない)・不貪欲・不瞋恚・不邪見のことで、

十善戒(十の項目よりなる善なる戒め)ともいいます

十悪を犯さないよう、気を付けたいものです。

スジャータの村(筆者撮影)

 

門前の小僧、『維摩経』を読む  維摩会(春秋館)で参禅ライフ15

仏と菩薩と聖声聞と独覚との過去現在未来のすべてに礼拝し奉ります。

それでは、一章の「仏国品」の続きを、ご一緒に読んでいきましょう。

 

廻向心は是れ菩薩の浄土なり。菩薩成仏の時、一切に功徳を具足せる国土を得ん。

八難を除くを説くは、是れ菩薩の浄土なり。菩薩成仏の時、国土に三悪八難有ること無からん。自ら戒行を守りて彼のたりなさを譏らざるは、是れ菩薩の浄土なり。菩薩成仏の時、国土に犯禁の名有ること無からん。

 

「八難」とは、仏道修行の妨げとなる八つの困難をいいます。

お釈迦様に会って教えを聞く機会のない ①地獄、②餓鬼、③畜生の状態。

快楽にふけるのみの④長寿天、⑤辺地(阿弥陀仏の本願を疑いながら

極楽往生を願った者の生まれる所。極楽浄土の辺界の地の状態)、

⑥ 盲聾唖であること、⑦よこしまな見解をもつこと、

仏陀が世に現れていない時を指します。

「精選版 日本国語大辞典」などを参考資料としました。

ラージキールのマンゴー園(筆者撮影)

 

門前の小僧、『維摩経』を読む  維摩会(春秋館)で参禅ライフ14

仏と菩薩と聖声聞と独覚との過去現在未来のすべてに礼拝し奉ります。

それでは、一章の「仏国品」の続きを、ご一緒に読んでいきましょう。

方便は是れ菩薩の浄土なり。菩薩成仏の時、一切の法に於て方便無礙なる衆生来って其の国に生ぜん。

三十七道品は是れ菩薩の浄土なり。菩薩成仏の時、念処(ねんじょ)・正勤(しょうごん)・神足(じんそく)・根(こん)・カ(りき)・覚(かく)・道(どう)の衆生来って其の国に生ぜん。

 

「三十七道品」とは、ニールヴァーナに到達するための

三七種類の実践修行をいいます。

具体的には、四念処、四正勤、四神足、五根、五力、七覚支、八正道のことで、

合計が37になります。

中村元博士の『ブッダ最後の旅』(中村元訳、岩波書店)を参考に、

これらを解説致します。

 

「四念処」とは、悟りを得るための4つの観想法です。

 ①身念処(自他の肉体が不浄であると心に思い浮かべること)、

 ②受念処(もろもろの感受作用は苦であると心に思い浮かべること)、

 ③心念処(もろもろの心作用は無常であると心に思い浮かべること)、

 ④法念処(あらゆる存在は無我であると心に思い浮かべること)をいいます。

 

「四正勤(ししょうごん)」とは、4つの正しい努力のことです。

 ①律儀断(りつぎだんと読み、まだ生じていない悪を生じさせないよう勤めること)

 ②断断(だんだんと読み、すでに生じた悪を断とうと勤めること)

 ③随護断(ずいごだんと読み、まだ生じていない善を生じさせようと勤めること)

 ④修断 (しゅうだんと読み、すでに生じた善を増すように勤めること)

 

「四神足」は四如意足ともいい、超自然的な神通力を得るための4つの基です。

「神」とは、この場合「妙用の図りがたい」という意味で、「神通」を指します。「足」とは因(よりどころ)を指し、神通を起こす因なので、

 神足と名付けられています。

 ①欲神足(すぐれた瞑想を得ようと願うこと)

 ②勤神足(すぐれた瞑想を得ようと努力すること)

 ③心神足(心をおさめて、すぐれた瞑想を得ようとすること)

 ④観神足(智慧をもって思惟観察して、すぐれた瞑想を得ること)

 

「五根」というと、眼・耳・鼻・舌・身の5つの感覚器官を想像しますが、

この場合はそうではなくて、「三十七品菩提分法」に含まれる「五根」とは、

信根・精進根・念根・定根・慧根」を指します。

「悟りに至るための5つの能力」のことで、これらの力を使って解脱すると

されています。

 ①信根(信仰。正しい教えを信じ、解脱を生じる力にする)

 ②精進根(努力。正しい実践を続け、解脱を生じる力にする)

 ③念根(憶念。正しい教えを強く想うことで、解脱を生じる力にする)

 ④定根(禅定。禅定をすることで、解脱を生じる力にする)

 ⑤慧根(智慧智慧を得ることで、解脱を生じる力にする)

 

「七覚支」とは、悟りを得るために役立つ7つの事柄という意味です。

「七菩提分」とも言います。

心の状態に応じて、存在を観察する上での注意・方法を七種にまとめたものです。

 ①沢法(教えの中から真実なるものを選びとり、偽りのものを捨てること)

 ②精進(一心に努力すること)

 ③喜(真実の教えを実行する喜びに住すること)

 ④軽安(身心を軽やかに快適にすること)

 ⑤捨(対象への執着を捨てること)

 ⑥定(心を集中して乱さないこと)

 ⑦念(おもいを平らかにすること)

 

そして、「八正道」とは正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定

8種を指します。

少しでも悟りへと近づけるように、日々努力したいと思います。

インドのビハール州中部にあるナーランダ仏教遺跡(筆者撮影)



 

参考文献:

ブッダ最後の旅』(中村元訳、岩波書店)ほか