門前の小僧、『維摩経』を読む  維摩会(春秋館)で参禅ライフ23

仏と菩薩と聖声聞と独覚との過去現在未来のすべてに礼拝し奉ります。

それでは、第二章の「方便品」を、ご一緒に読んでいきましょう。

 

長者維摩詰は、かくの如き等の無量の方便を以て衆生を饒益しつ。其れ方便を以て、身に疾(やまい)有るを現ずるや、其の疾を以ての故に、国王・大臣・長者・居士・婆羅門等、及び諸の王子、ならびに余の官属無数千人、皆往いて疾を問えり。

其の往ける者に、維摩詰身の疾にちなみて広く為に法を説けり。

「諸の仁者よ、是の身は無常にして、強きこと無く、力無く、堅きこと無く、速に朽つるの法にして、信ず可からざるなり。苦たり、悩たり、衆の病の集る所なり。諸の仁者よ、かくの如きの身は、明智の者のたのまざる所なり。この身は聚沫(しぶき)の如し、撮摩(きら)う可からず。是の身は泡の如し、久しく立つことを得ず。是の身はかげろうの如し、渇愛より生ず、この身は芭蕉の如し、中に堅(かたさ)有ること無し。是の身は幻の如し、顚倒より起る。是の身は夢の如し、虚妄の見たり。是の身は影の如し、業縁より現す。是の身は響の如し、諸の因縁に属す。是の身は浮雲の如し、須臾にして変滅す。足の身は電(いなづま)の如し、余念に住(とどま)らず。是の身は主無し、地の如きたり。是の身は我無し、火の如きたり。この身は寿無し、風の如きたり。是の身は人無し、水の如きたり。是の身は不実なり、四大を家となす。是の身は空たり、我・我所を離る。」

 

維摩居士が、肉体に執着することの虚しさをこんこんと説く場面です。

「顚倒」とは仏教用語で、真理に反する誤った見方のことです。

「虚妄」とはそらごと、ウソのことです。

私は、維摩會(春秋館)で、いま唯識を学んでいますが、

唯識では、主観と客観を別々のものと捉えてしまうことを

「虚妄分別」と説いています。

ヴァイシャーリにある石碑(筆者撮影)