門前の小僧、『維摩経』を読む  維摩會(春秋館)で参禅ライフ22

仏と菩薩と聖声聞と独覚との過去現在未来のすべてに礼拝し奉ります。

それでは、第二章の「方便品」を、ご一緒に読んでいきましょう。

 

若し博奕(ばくえき)の戯処(けしょ)に至るも、すなわち似て人を度し、

諸の異道を受くれども正信を毀(やぶ)らず、世典を明かにすと雖も

常に仏法を楽(ねが)い、一切に散せられて供養中の最と為る。

正法を執持して諸の長幼を摂し、一切の治生諧偶(かいぐう)して、

俗利を獲(う)と雖も似て喜悦せず。諸の四くに遊びて衆生を饒益し、

治政の法に入りて一切を救護す。

講論の処に入りては導くに大乗を以てし、諸の学堂に入りては

童蒙を誘開し、諸の婬舎に入りては欲の過(つみ)を示し、

諸の酒肆に入りては能く其の志を立つ。

若し長者に在りては長者中の尊として為(ため)に勝法を説き、

若し居士中にありては居士中の尊としてその貧著を断じ、

若し刹利に在りては刹利中の尊として教うるに忍辱を以てし、

若し婆羅門に在りては婆羅門中の尊として其の我慢を除き、

若し大臣に在りては大臣中の尊として教うるに正法を以てし、

若し王子にありては王子中の尊として示すに忠孝を以てし、

若し内官に在りては内宮中の尊として宮女を化政し、

若し庶民にありては庶民中の尊として福力を興さしめ、

若し梵天に在りては梵天中の尊として誨(おし)うるに勝慧を以てし、

若し帝釈に在りては帝釈中の尊として無常を示現し、

若し護世(ごせ)に在りては護世中の尊として諸の衆生を護る。

 

維摩居士が、あらゆる人たちと交流して

教化していく様を表現した部分です。

若し婆羅門に在りては婆羅門中の尊として

其の我慢を除き…」とあります。

バラモンの中でもバラモンとして尊敬されるのは、

我慢を除いているから」といった意味になります。

ここの「我慢」という言葉は、私たちが通常使う

「耐え忍ぶ」という意味の我慢とは違い、仏教用語です

(というか、現在使われる『我慢』は、元々はこの仏教用語

語源とする言葉です)。

ここで説く「我慢」とは、自分(我)を固定的な実体とみて、

それに執着する誤った見解をいいます。

また、そのような誤解から、自分は他者よりも偉いと思うような

驕った心をいいます。

 

乾期の尼連禅河(ネーランジャナー川) 筆者撮影